れきしを今につたえる深谷上杉氏

国済寺

深谷上杉氏は、室町幕府の役職の一つである関東管領(かんとうかん
れい)となった上杉憲顕(のりあき)の六男憲英(のりふさ)から始
まり九代の氏憲(うじのり)までを言います。その間は、およそ23
0年間におよびました。  憲英は、足利幕府に対抗する敵をくい止め
るために現在の深谷市の国済寺があるところに庁鼻和城(こばなわじ
ょう)を築きました。 
  図1は、当時の庁鼻和城の区域を表しています。図2は、深谷上杉
氏九代の系譜です。


図1
              ◎さきたま文庫35「国済寺」(さきたま出版会)より
図2
◎さきたま文庫35「国済寺」(さきたま出版会)より


◎深谷市教育委員会社会教育課パンフレットより
 憲顕から五代目の房憲(ふさのり)は、より守りをかためるために
深谷城(ふかやじょう)を築きました。その場所は、現在の城址公園
から深谷小学校までふくむ広い面積をもっていました。八代目の憲盛
(のりもり)は、上杉謙信(けんしん)の家臣になったこともありま
したが、結局、鉢形城の北条氏邦(うじくに)の家臣になりました。
九代目の氏憲は、北条氏の家臣であったため、1590年に豊臣秀吉
による小田原攻めの時に敗れました。ここに深谷上杉氏の歴史は、終
わりました。深谷上杉氏は、日本の歴史と歴史上に登場する有名な人
物、足利尊氏(たかうじ)、上杉謙信北条氏、豊臣秀吉などと関係し
ていて、とても興味深いものがあります。
 上の深谷上杉氏イラストマップを見ながら散歩すると、より歴史が
楽しいものになると思います。


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