エピソード 詳細
種別 エピソード
父親 畠山重能
説明
 秩父郡吉田(吉田町)を本拠地とする秩父氏の嫡流が,男衾郡畠山の地に進出したのは秩父権守重綱の孫,畠山庄司重能のときとされている。畠山庄については古書にその名称が伝えられるのみで,実態は全く不明であるが,重能の本領が畠山の地であったことは疑いのないところである。ただし,その開発者が重能であるか,その父重弘か,あるいは祖父重綱か論の分かれるところである。「重能が畠山庄司を名乗るからには,この地域の開発の時期を一,二代さかのぼらせて考えることは可能である」(安田元久「武蔵の武士団」−その成立と故地をさぐる−)とし「この地を開発したのは,秩父重綱,あるいはその子重弘の時代であったかも知れない」とされている。ここで重綱の名が挙げられているのは,畠山の井椋神社の縁起の「崇徳院天治年中に重綱当所に移住する砌り,当社五所宮をば勧請し奉り」によるものであるが,この縁起の真偽ははかり難く,重綱の畠山への移住も考えられない。それよりも,すでに述べたように秩父氏一族の各地への進出,ことに重綱の二子重隆の河越開発,四子重継の江戸進出等と同じ時期に,長子重弘によって畠山の開発が進められ,そこにその子重能が移り住んだとみるのが至当であろう。ちなみに畠山の地には,前記の縁起を除くと重綱・重弘に関する伝承等は全くない。重能については,畠山館跡にある「畠山重忠公史跡公園」内の椎の木の根本に自然石の「畠山重能の墓」があり,地元住民の尊崇の対象となっている。墓としての確証はないものの,畠山の地の開発領主であり,畠山氏の祖となった重能に対する地元住民の崇祖の念の表れであるといえよう。重能の事跡については,吾妻鏡,源平盛衰記,保元物語,平家物語の記事に依るほかはない。源平盛衰記によれば,久寿二年(1155)大蔵(嵐山町)の戦の後,源義朝の長男悪源太義平は重能に対し,敗れた源義賢の二男駒王丸を探して命を絶つように命じた。一度は承知した重能であったが,僅か二歳の子を不愍に思ってこの子を助け,斎藤別当実盛(妻沼町長井)に託した。実盛は,義朝の勢力の強い東国にこの子を置いてはいつか討たれてしまうと考え,母と共に信州木曽の中原兼造に預けて養育を依頼した。駒王丸が後の木曽義仲である。保元物語によれば,保元の乱(保元元年−1156)で,長男義朝と平清盛の連合軍に敗れた源為義が,長男である義朝の情にすがって降服しようとした際に,八男為朝はこれを諌め「何とかして坂東におもむき,この合戦に参加しなかった三浦介義明,畠山庄司重能,小山田別当有重らと語らって再起を期したい」と強く主張したという。これによってみても,重能,有重兄弟の軍事力が,為朝に深く信頼されるほど大きかったことを知ることができる。このように源氏に属し,しかも深い信頼をうけていた重能であったが,平治の乱(平治元年−1159)に源義朝が敗れて源氏の命脈が中断すると平氏に仕えるようになり,内裏や院の御所を警固する京都大番役などにも勤仕するようになった。乱の翌年に武蔵国が平氏の知行国となり,平知盛が武蔵守に任ぜられたこともあって,武蔵総検校職を勤める重能としては当然その支配を受けざるを得なかったのであろう。また武蔵における在地武士団の棟梁とすれば,自らの在地支配のためには,新しい政権の担い手であり全国の「武士の棟梁」である平氏に服従するほか選ぶ途がなかったのであろう。平家物語によれば,寿永二年(1183)五月二十一日重能・有重の兄弟は加賀国篠原で,都に攻めのぼる木曽義仲の精鋭今井四郎兼平と対戦,炎天下で双方それぞれ三百騎が入り乱れて戦い,互いに多くの家の子郎党を失って退いた。やがて木曽義仲は平氏を追って京都に入り,平氏は同年七月都落ちを余儀なくされた。その時にあたって重能・有重の兄弟は,すでにこの時東国において重忠が源頼朝に従うようになったので首を斬られるべきところを,平知盛の進言を受け入れた平宗盛に許され,東国へ下るよう暇を賜った。その際二人は西海までも平氏の供をするように願ったが「汝等が魂は皆東国にこそあるらんに,ぬけがら斗西国へめしぐすべき様なし,いそぎ下れ」と許されなかった。やむなく二人は涙を押えて東国へ下ったという。なお,吾妻鏡では宗盛に進言して重能等を助けたのは平貞能であったとしている。こうして平氏を離れた重能兄弟のうち,弟の小山田有重の名はその後の吾妻鏡の記事にも見えるので頼朝の御家人になったことは明らかであるが,兄重能の消息については全く不明である。吾妻鏡にも平家物語・源平盛衰記にもその名が見えず,頼朝に仕えたかどうかすらも明らかでない。平氏に長く仕えた重能を頼朝が疎んじたのか,重能が平氏の重恩を肝に銘じて頼朝に仕えなかったのか。いずれにしても,後事を全て重忠にまかせてしまったとしか思えない。もちろん重能の没年等も不詳である。

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