西暦 元号 月日 重忠関係の出来事
1086 寛治元年 秩父武綱、後三年の役で源義家に従い清原武衡を討つ。先陣をつとめ白旗を与えられる
1148 久安四年 秩父重綱が平沢寺長者塚に経筒を埋納する
1160 永暦元年 2月 頼朝捕えられて翌月11日伊豆に流される
1164 長寛二年 重忠、武蔵国男衾郡畠山館で生まれる。母は三浦義明の娘。幼名を氏王丸という
1167 仁安二年 2月 平清盛が太政大臣となる
1167 仁安二年 このころから重忠、畠山館で文武両道に励む
1180 治承四年 4月9日 源頼政、以仁王より平氏討伐の令旨を受ける
1180 治承四年 6月24日 頼朝使者を武蔵に派遣し、累代の御家人を召集する
1180 治承四年 7月 重能、小山田有重兄弟、大番役のため京へ上る(平家物語)
1180 治承四年 8月23日 頼朝、石橋山で大庭景親らと戦い敗れる
1180 治承四年 8月24日 重忠、鎌倉油井ヶ浜で三浦義澄と合戦、郎従五十余人死す。(小坪の戦い)
1180 治承四年 頼朝箱根山に逃れる
1180 治承四年 8月26日 重忠、河越重頼、江戸重長らと衣笠城に三浦氏を攻める
1180 治承四年 頼朝、箱根山より土肥、真鶴、安房に渡る
1180 治承四年 10月2日 頼朝、武蔵に向かう
1180 治承四年 10月4日 重忠、長井の渡しで河越重頼、江戸重長らと頼朝と参会。頼朝に従う
1180 治承四年 10月6日 頼朝、平氏討伐のため鎌倉に向かい発つ。重忠先陣をつとむ
1180 治承四年 10月21日 奥州より義経馳せ参じ頼朝に謁す
1180 治承四年 12月12日 頼朝、鎌倉の大倉館に入る。重忠最末に候す
1181 養和元年 1月1日 重忠ら、頼朝の鶴岡八幡宮若宮参詔に際し辻々を警固する
1181 養和元年 3月24日 重能、春除目に兵衛尉の申文を提出する。(吉記)
1181 養和元年 7月20日 重忠ら、鶴岡八幡宮若宮の宝殿上棟に際し、大工に与える馬を引く
1182 寿永元年 1月3日 重忠ら、頼朝の御行始に供奉して安達盛長邸に赴く
1182 寿永元年 4月5日 重忠ら、頼朝の江ノ島参向に供奉する
1182 寿永元年 8月13日 重忠ら、頼家の誕生に際し護刀を献上する
1182 寿永元年 この年 重忠、三峰神社に加護を祈願する(三峰神社文書)
1183 寿永二年 5月21日 畠山重能、小山田有重ら篠原の戦いで奮戦す(平家物語)
1183 寿永二年 6月 平家都落ち
1183 寿永二年 7月 重能、小山田有重ら平宗盛より暇をうける(平家物語)
1183 寿永二年 この年 畠山小次郎重秀生まれる、母は足立遠元の娘
1184 元暦元年 1月 重忠、佐々木高綱の愛馬生?のいななきを聞き、その名を言い当てたという(源平盛衰記)
1184 元暦元年 1月20日 宇治川の戦。重忠丹党以下500騎で川を渡る。(平家物語)
1184 元暦元年 重忠、長瀬重綱を討ち取る(平家物語)
1184 元暦元年 木曽義仲戦死
1184 元暦元年 義経、宇治より京都六条院殿の御所に参上、重忠参列(源平盛衰記)
1184 元暦元年 2月5日 一の谷の戦。重忠大手の大将源範頼に従い後、搦手の大将義経に従う
1184 元暦元年 2月7日 鵯越の逆落としをする、本田近常、平師盛を討ちとる(源平盛衰記)
1184 元暦元年 6月1日 重忠、平頼盛(池禅尼の子)の餞別の宴に列座する
1184 元暦元年 11月6日 鶴岡八幡宮別当坊において音曲あり、重忠今様を歌う
1185 文治元年 2月15日 大物の浦で逆艪の論議あり、重忠、梶原景時を抱いて争いを止める(源平盛衰記)
1185 文治元年 2月20日 屋島の戦。扇の的を射よと命ぜられるも固辞し、那須与一を推す(源平盛衰記)
1185 文治元年 3月24日 壇ノ浦にて平家滅亡する
1185 文治元年 10月24日 重忠ら、頼朝の勝長寿院落慶供養参向に随兵として供奉する
1185 文治元年 11月3日 義経京都を追われる。
1186 文治二年 4月8日 静御前、鶴岡八幡宮で舞を舞う。重忠、銅拍子を打つ
1187 文治三年 6月29日 伊勢國、沼田御厨の代官乱妨のため地頭職重忠訴えられる
1187 文治三年 8月9日 重忠ら、鶴岡八幡宮の馬場造成に群参する
1187 文治三年 9月27日 重忠、沼田御厨のことで囚人として千葉胤正に預けられる。所領四ヶ所没収される
1187 文治三年 10月4日 千葉胤正の仲介により許され武蔵国へ帰る
1187 文治三年 10月13日 重忠から没収した所領、吉見頼綱に宛て行われる
1187 文治三年 11月15日 梶原景時より重忠謀反の意ありと頼朝に讒言あり
1187 文治三年 11月21日 下河辺行平、重忠を伴い鎌倉に帰る。重忠起請文を書くように言われるも、これを拒否する
1188 文治四年 3月15日 重忠ら、頼朝の鶴岡八幡宮大般若経供養参向に随兵として供奉する
1188 文治四年 4月 高千穂神社文書に「天下より御名代ちちふ様(重忠公)十社大明神(高千穂神社)に参詣」と書かれる
1188 文治四年 4月9日 重忠ら、奥州に下向する官使らの宿次雑事等の沙汰を命じられる
1188 文治四年 7月10日 重忠ら、源頼家の着甲始の儀に列座する
1188 文治四年 9月14日 頼朝、熊野から参向した尊南坊僧都定任と対面する。重忠ら、その場に列座する
1189 文治五年 1月9日 重忠ら、頼家の弓始めの議に列座する(御的日記)
1189 文治五年 4月18日 重忠ら、北条時房の元服の儀に列座する
1189 文治五年 4月30日 源義経衣川館で妻子とともに自害
1189 文治五年 6月9日 重忠ら、頼朝の鶴岡八幡宮御塔供養参向に供奉する
1189 文治五年 7月10日 頼朝、重忠の旧領伊勢国沼田御厨の土民らの訴えを受け、吉見頼綱の押妨停止を命じる
1189 文治五年 7月17日 頼朝、奥州討伐軍を三手に分け、それぞれの部署を定める。重忠、大手軍の先陣を命じられる
1189 文治五年 7月19日 奥州討伐軍発進、重忠先陣
1189 文治五年 8月7日 重忠、阿津志賀山の城郭の堀を埋める
1189 文治五年 8月8日 重忠ら、阿津志賀山の前で箭合わせを行い、金剛別当秀綱の軍勢を撃ち破る
1189 文治五年 8月9日 三浦義村ら、先陣を争い、重忠の陣をひそかに馳せ越す
1189 文治五年 8月10日 阿津賀志山の合戦。重忠、城将西木戸國衡を討つ
1189 文治五年 8月11日 船迫宿にて、重忠が國衡の首を献ずる、和田義盛と前日の合戦の戦功をめぐり論争をする
1189 文治五年 8月15日 頼朝が軍勢の狼藉を停止するよう重忠に命じる(島津家文書)
1189 文治五年 8月20日 頼朝、先陣の重忠らに合戦の指示を与える
1189 文治五年 9月6日 重忠ら、陣岡にて藤原泰衡の頸を実験する
1189 文治五年 9月7日 重忠、梶原景時に代り由利維平の尋問を行い、その身を預かる
1189 文治五年 9月20日 重忠、陸奥の葛岡郡を与えられる
1190 建久元年 4月11日 重忠ら、頼家がはじめて小笠懸を射る場に参候する
1190 建久元年 9月16日 重忠ら、頼朝の上洛に供奉するために武蔵国から参上する
1190 建久元年 10月2日 重忠、上洛の先陣を命じられる
1190 建久元年 10月3日 頼朝、上洛のため鎌倉を出発する。重忠、先陣を務める
1190 建久元年 11月7日 頼朝、重忠を先陣として入洛する
1190 建久元年 11月9日 重忠ら、頼朝の参内に供奉する
1190 建久元年 11月11日 重忠ら、頼朝の六条若宮・石清水八幡宮参詣に随兵として供奉する
1190 建久元年 12月1日 重忠ら、頼朝の右大将拝賀の参院に随兵として供奉する
1190 建久元年 12月29日 12月14日に京都を進発し同月29日に鎌倉に帰着した
1191 建久二年 2月4日 重忠ら、頼朝の二所参詣(伊豆山神社、箱根神社)に供奉する
1191 建久二年 3月3日 重忠ら、頼朝の鶴岡八幡宮法会および臨時祭参向に供奉する
1191 建久二年 7月28日 幕府新造亭に移る、重忠遷亭の儀列に参列
1191 建久二年 8月1日 重忠ら、新造御所で行われた酒宴に列座する
1191 建久二年 8月18日 重忠ら、新造の厩に馬を進上する
1191 建久二年 11月19日 重忠ら、頼朝の命で多好方に神楽を習う
1192 建久三年 6月13日 永福寺建立のための木材を運び怪力をあらわす
1192 建久三年 7月12日 頼朝、征夷大将軍に補せられる
1192 建久三年 7月28日 重忠ら、征夷大将軍の除書を持参した勅使への贈物を調進する
1192 建久三年 9月11日 永福寺工事進む。重忠、永福寺庭池の大石を一人で運び据える
1192 建久三年 11月13日 重忠ら、永福寺の池石を置き直す
1192 建久三年 11月25日 重忠ら、頼朝の永福寺供養参向に供奉する
1192 建久三年 熊谷直実出家す
1192 建久三年 11月29日 重忠ら、源実朝の誕生五十日・百日の儀に十字(蒸し餅)を贈る
1193 建久四年 2月 頼朝の命により佐助稲荷を再建す
1193 建久四年 2月9日 頼朝に重忠、丹・児玉両党の仲裁を命じられる
1193 建久四年 2月18日 重忠、丹・児玉両党の和平報告する
1193 建久四年 5月8日 重忠ら、頼朝に従って富士野の巻狩りに赴く
1193 建久四年 5月28日 曽我祐成・時致兄弟、父の仇、工藤祐経を討つ
1193 建久四年 5月29日 曽我兄弟尋問、重忠尋問の座に列す
1193 建久四年 11月15日 重忠、頼朝と真円の対面の座で陪膳(給仕役)をつとめる
1193 建久四年 11月27日 重忠ら、頼朝の永福寺薬師堂供養参向に先陣随兵として供奉する
1194 建久五年 2月2日 重忠ら、北条泰時(頼時)の元服の儀に列座する
1194 建久五年 6月28日 頼朝、重忠らに宛て課した東大寺造像を催促する
1194 建久五年 8月8日 重忠ら、頼朝の日向山薬師参詣に先陣随兵として供奉する
1194 建久五年 9月11日 重忠ら、永福寺新造御堂の宿直人に結番される
1194 建久五年 11月4日 鶴岡八幡宮神楽あり。重忠神楽、付歌を歌う
1194 建久五年 11月15日 重忠ら鶴岡八幡宮一切経および両界曼荼羅供養に供奉する(鶴岡八幡宮一切経ならび両界曼荼羅供養記案)
1194 建久五年 12月2日 重忠ら、御願寺社の奉行人に命じられる
1195 建久六年 2月10日 重忠、上洛供奉人の先陣を命じられる
1195 建久六年 2月14日 頼朝上洛のため先陣となり鎌倉を出発。奈良東大寺、四天王寺等参詣、6月25日鎌倉に帰る
1195 建久六年 3月9日 重忠ら、頼朝の石清水八幡宮および左女牛若宮の臨時祭参向に随兵として供奉する
1195 建久六年 3月10日 重忠ら、頼朝の東大寺供養参向に先陣として南都(奈良)に到着する
1195 建久六年 3月12日 頼朝、東大寺供養に臨席する。重忠ら、先陣随兵として供奉する
1195 建久六年 4月5日 重忠、栂尾に参向し、明恵上人に謁する
1195 建久六年 5月20日 重忠ら、頼朝の天王寺参詣に先陣随兵として供奉する
1195 建久六年 6月25日 重忠ら、鎌倉に帰る
1195 建久六年 この年 重忠が三峰神社に十里四方の土地を寄進し、守護不入の地となす(三峰神社文書)
1198 建久九年 12月27日 稲毛重成が亡妻供養のため相模川に橋をかけこの日供養を行う、頼朝この式に出席し帰途落馬す
1199 正治元年 1月13日 頼朝、重忠に後事を託し死去(53才)
1199 正治元年 1月26日 頼家、17才で将軍の跡を継ぐ
1199 正治元年 4月12日 将軍親戚を排し、十三人による合議制とする
1199 正治元年 5月7日 丹波時長、京都から参着し、重忠の南御門宅に移り住む
1199 正治元年 6月30日 重忠ら、乙姫の葬送に供奉する
1199 正治元年 10月28日 梶原景時の糾弾連署状出さる。重忠署名す
1199 正治元年 12月18日 梶原景時、鎌倉を追放され、翌年正月20日一族討たれる
1200 正治二年 1月18日 重忠、源頼家に椀飯を献じる
1200 正治二年 2月2日 重忠、梶原景時の余党勝木則宗の腕を折り、その身を捕らえる
1200 正治二年 2月6日 重忠、勝木則宗生け捕りのことについて真壁秀幹を戒める
1200 正治二年 5月28日 葛岡郡新熊野社の社僧、坊領の境相論につき惣地頭重忠に裁決を求める
1200 正治二年 7月1日 源頼家、相模河に赴き鶏船を覧る。重忠ら、これに供奉する
1201 建仁元年 6月28日 源頼家、簾中から板額(反乱者)を観る。重忠ら、侍所に群参する
1202 建仁二年 7月26日 頼家従二位征夷大将軍となる。
1203 建仁三年 8月27日 頼家病気のため、子一幡に関東二八国の地頭職と守護職を、弟実朝に関西三八国の地頭職を分与する
1203 建仁三年 9月2日 比企能員、頼家と北条氏打倒を謀り、名腰亭で討たれ、一族も小御所で一幡と共に討たれる、重忠追討軍に加わる
1203 建仁三年 9月7日 実朝征夷大将軍に補される
1203 建仁三年 11月15日 重忠ら、鎌倉中の寺社奉行に定められる
1204 元久元年 1月28日 重忠が北条時政を破る旨のうわさが京都に伝わる(明月記)
1204 元久元年 2月3日 重忠、建仁寺惣門の北に垣を築く(帝王編年記)
1204 元久元年 7月18日 頼家(23歳)伊豆修善寺で謀殺される
1204 元久元年 10月14日 六郎重保、実朝の室を迎えるため京都にのぼる
1204 元久元年 11月4日 重保、京都守護の平賀朝雅邸の酒宴で朝雅と争論す
1205 元久二年 1月14日 重忠・重保父子の勘当が解ける(平某書状案、島津家文書)
1205 元久二年 6月19日 重忠、菅谷館を出発鎌倉に向う
1205 元久二年 6月20日 重保、稲毛重成に招かれ鎌倉に着く
1205 元久二年 6月21日 時政、平賀朝雅のざん言により重忠親子も誅することを謀るも、義時時房、重忠を弁護す
1205 元久二年 6月22日 この日朝重保、三浦義村に油井ヶ浜で討たれる
1205 元久二年 重忠、二俣川で大将軍義時、時房率いる大軍に襲われ重忠以下134名討死す
1205 元久二年 6月23日 義時ら鎌倉に帰る。重忠の無実の死を悲しむ
1205 元久二年 7月8日 北条政子、重忠余党の所領を与えられる
1205 元久二年 7月19日 北条時政、牧ノ方追放される
1205 元久二年 7月22日 義時執権となる
1205 元久二年 7月26日 平賀朝雅、京都で討たれる
1205 元久二年 9月2日 内藤朝親、重忠謀殺などを遅延の理由とする
1210 承元四年 5月14日 重忠の後妻の所領を安堵される
1212 建暦元年 4月2日 かつて重忠が陸奥国長岡郡を知行した記録あり
1213 建保元年 9月19日 重忠の末子僧重慶、日光山別当弁覚に謀反を企てたと訴えられる
1213 建保元年 9月26日 重忠末子重慶、長沼宗政のために誅される
1219 承久元年 1月27日 源実朝、八幡宮で公暁に殺され、続いて公暁も三浦氏に切られ源氏の正統絶つ