深谷市の歴史6

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■幕末〜近代

〜新たな産業の発展〜

 幕末から明治維新にかけては、北部の村々から優れた憂国の志士が輩出されました。水戸学を学び尊王攘夷論に傾倒した、桃井可堂、尾高惇忠、渋沢栄一たちでした。

 渋沢栄一は、倒幕運動の計画中止の混乱から満23歳のときに深谷を離れましたが、以後、明治新政府、次に実業に携わり、日本近代経済の父と呼ばれる活躍をしました。
 明治20年には、深谷市にも最初の機械式煉瓦製造工場である、日本煉瓦製造株式会社を設立しました。ここで作られた煉瓦は、東京駅、迎賓館、法務省旧本館など明治期の多くの西洋建築に用いられています。

 

 このころの行政組識は、度重なる変更がありましたが、明治中期には、現在の市域内は、深谷町、藤沢村、幡羅村、明戸村、大寄村、新会村、八基村及び中瀬村のそれぞれの町村となりました。

尾高惇忠 

渋沢栄一 渋沢栄一


日本煉瓦製造株式会社工場(明治22年ごろ)

 明治時代以降の深谷市の商工業は、特に養蚕業、窯業、煉瓦製造業の発達とともに振興していきました。
 農業では、農業地域であった北部を中心とした地域で、藍作から養蚕、米麦、野菜などへ転換が図られました。
 全国に名を知られる「深谷ねぎ」も明治30年頃から新しい作物として本格的栽培が始まりました。当初、ねぎ作りは難しく、多くの収穫を期待することは出来ませんでしたが、幾多の改良を加え、食味、耐寒性、耐病性に優れ、収穫量の多いねぎへ変身しました。肥沃な土地、豊富な水、日照時間の長さなどの条件に恵まれ、甘くておいしい、深谷市の特産物となったのです。
 こうして、首都圏へ向けた出荷が増加していくとともに、全国有数の農産物の集散地として発展していきました。

 ねぎの作業
ねぎの出荷作業。明戸(昭和32年)

 

■現代

 〜現在の深谷市へ

 昭和30年1月1日、深谷町、藤沢村、幡羅村、明戸村及び大寄村の1町4か村が合併して、県下18番目の市として、深谷市が誕生しました。
 また、始めに新会村、八基村が、次いで中瀬村が合併し、同年、豊里村となりました。
 昭和30年10月1日には岡部町の一部が、深谷市に編入合併。さらに昭和48年4月1日には豊里村が編入合併し、現在の深谷市となりました。

合併当時の市庁舎
合併当時の深谷市庁舎(昭和30年)
旧深谷町立中学校の校舎が用いられました。

 深谷市の誕生後、各産業は、首都圏に近い立地を活かしバランスのとれた発展をしてきました。

 工業は、地場産業の窯業、縫製業に加えて、昭和30年代から50年代に工業団地が相次いで造成され、電子機械、非鉄金属などを中心に発展を続けてきました。

 農産は、近代的経営のために土地改良、農道整備等が行われ、ねぎを始めとした野菜類の首都圏への供給地としてさらに発展しました。また、南部を中心とした地区では、野菜類のほかチューリップ、ゆりなどの花卉の生産も振興していきました。

 商業は、中山道を中心にした中心市街地に加え、新興地区や郊外での店舗の進出によって商圏が拡大していきました。
 人口の増加に伴い、年間商品販売額、1商店当たり販売額など順調に増加してきましたが、近年においては、全国的な景気の低迷を背景に、その傾向が鈍化しています。

 こうした産業の発展を背景に、上野台、上柴、東方地区などの区画整理の実施によって新興住宅地が建設され、首都圏のベッドタウンともなっていきました。
 人口は、昭和30年の合併時には5万1,028人でしたが、ほぼ増加を続け、平成7年には10万人を超えました。

工業団地(昭和37年)
工業団地の造成(昭和37年)

チューリップ
市の花「チューリップ」

 平成17年、深谷市は、市政施行50周年を迎えました。

 平成18年1月1日、深谷市、岡部町、川本町及び花園町とが合併し、新しい深谷市が誕生しました。

 新しい深谷市には、旧市及び町の歴史と文化財が引き継がれるました。また、新しい歴史が作られていくこととなります。

JR深谷駅
JR高崎線 深谷駅

引用について:
 このページの「合併当時の深谷市庁舎」「ねぎの出荷作業」「工業団地の造成」の画像は、「写真集/深谷市の昭和史」(深谷郷土文化保存会編集、1993年、千秋社発行)から引用・転載しました。

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