深谷市の歴史4

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■平安時代末期〜鎌倉時代

〜深谷の地方豪族〜

 平安時代末期以降には、武蔵七党猪俣党の支族、人見氏などの地方豪族が登場します。

 人見氏は、「太平記」にも登場する人見四郎光行を輩出しました。その居館と考えられる人見館跡は、埼玉県指定史跡になっています。

 また、鎌倉時代には、新開荒次郎実重のように、鎌倉幕府の有力御家人として活躍した人もいました。

 


人見館跡(人見)

 

■南北朝時代〜江戸時代初期

〜深谷上杉氏と深谷城〜

 14世紀後半、関東管領山内上杉憲顕は、北関東の新田氏の勢力や一揆などを抑えるため、6男の憲英(のりふさ)を深谷に派遣しました。これが深谷上杉氏の始まりです。当初は、庁鼻和(こばなわ、現在の国済寺周辺)に住んだため、庁鼻和上杉氏とも呼ばれます。

上杉憲英墓(国済寺)

 5代目の上杉房憲(ふさのり)の時、古河公方と関東管領との抗争が激しくなりました。
 管領方の有力武将であった房憲は、より要害の深谷城(現在の城址公園から深谷小学校周辺)を築きました。1456年のことと考えられます。
 城は、低湿地に築かれ、深い堀と土塁によって守られていました。堀の一部は、障子堀(堀底に障壁などを設けた堀)という特殊な構造であったことが、発掘調査で明らかになっています。

深谷城障子堀
深谷城障子掘(第10次調査)

 その後、主家の山内上杉氏が没落した後、深谷上杉氏は、北条氏、上杉氏、武田氏の抗争に巻き込まれ、主家を度々変えながら存続を図ります。
 1573年には、完全に北条氏の傘下に入り、寄居町にある鉢形城の支城として北条氏の領国経営の中に組み込まれていきます。

 そして1590年、豊臣秀吉の小田原攻めにより、北条方であった深谷城は開城します。
 開城後は、徳川家康の子や家臣が城主となりましたが、1626年についに廃城となりました。現在は、水路や部分的に残る高まりなどに、堀や土塁のこん跡を留めるのみとなっています。


富士浅間神社(智形神社)と深谷城外濠跡

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