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■縄文時代〜台地での進展〜 |
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縄文時代になると、多くの人々が暮らしていたことが分かっています 縄文時代草創期(約12,000年前)の道具として、東方城跡(東方)から尖頭器(やりの先に用いる石器)が出土しています。しかし、草創期から前期にかけての出土品は、あまり見つかっていません。 縄文時代中期後半(約4,500〜4,000年前)には、南部の台地上に多数の集落をつくっていました。代表的な遺跡として、小台遺跡(上野台)や、島之上遺跡(柏合)などが挙げられます。 縄文時代後期(約4,000年前)以降になると、集落の分布が北部の低地へと移っていったことがうかがわれます。このことは、生業が変化したことと密接に関係しているのでしょう。稲作の始まりとの関係もあるかもしれません。
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■弥生時代〜北部低地への進展・新たな文化の進入〜 |
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弥生時代前期(約2,300年前)のものとして、稲作の広がりを示す九州地方や東海地方の型の土器が、上敷免遺跡で縄文時代晩期の遺物に混じって見つかっています。 弥生時代中期(約2,100年前)のものとして、再葬墓や住居跡(上敷免遺跡・宮ヶ谷戸遺跡)が発見されています。住居跡はいずれも2〜3軒が寄り添うような形で見つかり、小さな集落を形成していたようです。
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弥生時代後期(約1,800年前)のものとして、集落跡が明戸東遺跡で見つかっています。中期までの集落と比べてやや大きなまとまりとなりますが、次の古墳時代と比べればまだごく小規模な集落といえます。 こうした低地部で広げられた弥生社会とは別に、台地上では新たな勢力が進出していました。櫛挽台地末端の桜ヶ丘女子高遺跡では、長野県の栗林式そのものといってもよい土器が出土しています。 |
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