年 号 | 数え年 | 年 譜 と 業 績 | そのころの動き |
1840 (天保11年)
| 0 | ●2月13日、武蔵国榛沢郡血洗島(現深谷市)に市郎右衛門、えいの長男としてうまれる | ★アヘン戦争起る ★ペリー浦賀に来航 |
1858 (安政5年)
| 19 | ●尾高惇忠の妹ちよと結婚(ちよ18歳) | ★日米通商条約締結 |
1861 (文久元年)
| 22 | ●江戸の海保塾や千葉道場で文武の道を学び、天下の志士と交わる
| ★安政の大獄 ★ハリス下田に到着 |
1863 (文久3年)
| 24 | ●高崎城乗っ取りを計画するが、尾高長七郎(惇忠の弟)の説得により中止 ●喜作とともに京にのぼる | ★外国船下関を砲撃 |
1864 (元治元年)
| 25 | ●一橋家の用人平岡円四郎のはからいで喜作とともに一橋家に仕官する | ★長州征伐開始 ★一橋慶喜徳川第15代将軍となる |
1867 (慶応3年)
| 28 | ●将軍徳川慶喜の弟昭武に従いフランスのパリ万博に随行 | ★大政奉還 |
1868 (明治元年)
| 29
| ●フランスより帰国。一時静岡藩に仕える | ★五箇条の御誓文 |
1869 (明治2年)
| 30
| ●明治新政府に仕官。租税正となる | ★戊辰戦争終結 |
1873 (明治6年)
| 34 | ●大蔵省を辞任し、第一国立銀行総監役となる ●わが国最初の洋紙製造会社(抄紙会社)の創立を指導、明治政府を退いてからは事実上の社長として尽力する。 | ★廃藩置県 |
1874 (明治7年)
| 35 | ●東京養育院の事務をつかさどる | ★西南戦争 |
1878 (明治11年)
| 39 | ●明治38年まで、東京商法会議所、東京商工会、東京商業会議所の会頭をつとめる |
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1879 (明治12年)
| 40 | ●前アメリカ大統領グランド将軍の歓迎会を行う |
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1882 (明治15年)
| 43 | ●妻ちよ死去 |
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1883 (明治16年)
| 44 | ●伊藤兼子を妻に迎える |
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1885 (明治18年)
| 46 | ●東京府の経営廃止条例決定により、東京養育院の存続に努力する | ★大日本帝国憲法発布 |
1896 (明治29年)
| 57 | ●国立第一銀行が株式会社第一銀行となりその頭取となる | ★日清戦争起こる |
1900 (明治33年)
| 61 | ●男爵を授けられる |
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1902 (明治35年)
| 63 | ●アメリカ及びヨーロッパ諸国を兼子夫人とともに訪問し、国際親善につとめる | ★日露戦争起こる |
1908 (明治41年)
| 69 | ●八基小学校において「一村の興隆と村の自治的精神」と題して講演を行う |
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1909 (明治42年)
| 70 | ●金融機関以外の事業会社(約60社)の役職を辞任する ●渡米実業団の団長としてアメリカに渡る |
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1914 (大正3年)
| 75 | ●駐日実業株式会社の設立を機に中国を視察し、親善につとめる | ★第一次世界大戦起こる |
1915 (大正4年)
| 76 | ●パナマ運河開通記念博覧会の見学をかねて日米親善のため渡米する |
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1916 (大正5年)
| 77 | ●第一銀行頭取をはじめ、金融界からも引退し社会公共事業に尽力する ●血洗島諏訪神社に拝殿を寄進する | ★パリ講和会議 |
1920 (大正9年)
| 81 | ●子爵を授けられる | ★国際連盟成立 |
1921 (大正10年)
| 82 | ●ワシントン軍縮会議の視察をかねて渡米し、平和外交を促進する |
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1923 (大正12年)
| 84
| ●関東大震災が起こり、大震災善後会副会長となる
| ★排日移民法案、アメリカ上院・下院を通過
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1926 (大正15年)
| 87
| ●白河楽翁公(松平定信)を記念し、東京市養育院長として第17回目の祭典をおこなう ●日本放送協会(NHK)の顧問となる
| ★ラジオ放送開始
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1927 (昭和2年)
| 88 | ●日本国際児童親善会会長として、日米の人形の交換につとめる
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1929 (昭和4年)
| 90 | ●宮中に参内、御陪食の栄光に浴する | ★世界大恐慌始まる |
1930 (昭和5年)
| 91 | ●救護法の実施について政府に働きかける | ★救護法制定される |
1931 (昭和6年)
| 92 | ●11月11日午前1時50分永眠 ●11月14日御沙汰書を賜る ●法名、泰徳院殿仁智義譲青淵大居士 ●東京都台東区の谷中の墓地に葬られる | ★満州事変 |